Archive for 小説

駿河台の記者たち⑫

駿河台の記者たち[12]

長瀬千年・作

 

60年安保


 
 それにしても、〈大学ではぜひとも女性と同じクラスで〉と熱望した志朗が、第2外国語の選択時に、〈フランス語はチャラチャラした女が好む言語〉と、拒絶したとは何ごとか。これほど非論理的な、自已矛盾はあるまい。

 実は志朗は高校3年になる時も、女子と同じクラスになるチャンスが十分あったのに、 自ら墓穴を掘ったのだ。
 
高校も3年生になると、大学の進路志望に沿ってクラス替えをした。理数系の教科が極端に苦手な志朗は、当然、私立大しか進めない。それなら女子の志望者もたくさん居て、女子と同じクラスになるチャンスも大きかったのだ。

 だが志朗は、素直に〈私立志望〉としなかった。最初からそうすると、親から〈金のかかる私立なんか、行かせられない〉と、大学進学そのものを否定されかねない、と案じたからだ。そこで、一計をめぐらした。
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駿河台の記者たち⑪

駿河台の記者たち[11]

長瀬千年・作

 

60年安保

「あれっ? 男ばかりやないか」
 初めての英語の授業だ。語学は出欠をきちんとチェツクするから、小教室はびっしり。そんなことより、志朗は教室に女子が1人も居ないことに驚いた。

 まがりなりにも法学部の政治学科だから、女子が少ないのは仕方がない。だが、クラスで女子がゼロとは不可解だ。他の仲間も、同じように首をかしげている。

 それは、そうだろう。思春期の高校生から、大人の世界の大学に入ったのだから、誰もが、自由かっ達に男女が談笑する世界を思い描いたはずだ。なぜここに女子が居ないのか。誰からともなく、隣や前後の席と情報交換が始まった。
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駿河台の記者たち⑩

駿河台の記者たち[10]

長瀬千年・作

 

60年安保

 ともあれ、まずは授業を受けてみよう。志朗は決して勉強好きではないが、ガイダンス中に高橋健二教授の『ドイツ文学論』の講義に出会い、興味を抱いたからだ。教材はドイツ人作家、ヘルマン・へッセの『車輪の下』。高橋教授自身が翻訳したと言い、志朗も高校時代に読んでいたから、親近感を覚えたのである。

 教授の講義は、まだこの本を読んでいない学生のために、小説のあら筋から入った。几帳面で人情味ある老紳士、と感じさせた。初印象で相手の人柄などを感じ取る、志朗はそんな早業も、持ち合わせている。
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駿河台の記者たち⑨

駿河台の記者たち[9]

長瀬千年・作

 

60年安保

 入学して1週間、まずはガイダンス授業が終わった。いよいよ、正規の授業である。ところが、志朗が大学に着くと、あれ? 昨日まであんなに込んでいた中庭も大教室も、今や嘘(うそ)みたいにスカスカなのだ。

 一体、あの大混雑は何だったのか。せんさく好きの志朗に、持ち前の野次馬根性が頭をもたげた。何か疑問なことに出会うと、なぜ?と突っ込みたくなるのが、志朗の性格である。だがこの疑問、志朗も同じ場所に身を置いていたから、すぐに思い当たった。

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駿河台の記者たち⑧

駿河台の記者たち[8]

長瀬千年・作

 

プロローグ

 入学式の式場は、2階席もある1500人ほど収容の大講堂だった。式は法学部が先頭の午前10時半だったが、そのあと1時間半ごとに経済学部と工学部、商学部と文学部が合同で続き、さらに午後5時半からは夜間部の入学式―。入り口の看板に、そう書いてあった。

 昼に働く学生たちが通う夜問部だから、入学式が夕方からの設定は当然である。だが、同じ昼問部が学部別に3回にも分けて催すことに、志朗はびっくりした。さすが大東京の大学だという驚嘆と、この大学には一体どれだけの学生がいるのか、とも思った。

 さて話は冒頭に戻り、いよいよ大学の授業が始まる初日だ。最初の1週間はまず、新入生に対して語学以外の一般教養科目の紹介授業である。各教官がそれぞれ、どういう授業を展開するか、学生たちに知ってもらって受講してもらうためのPRともいえる。 志朗は興味を抱いて、殊勝にも1講目から出ることにした。
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駿河台の記者たち⑦

駿河台の記者たち[7]

長瀬千年・作

 

プロローグ

 だから〈湯島〉と聞いて、すぐに思い浮かべたのが湯島天神だった。明治のロマン主義作家、泉鏡花『婦(おんな)系図』と、その後の新派劇で日本中を泣かせたーご存知、お蔦と早瀬力の切ない別れの舞台である。歌謡曲『湯島の白梅』にも歌われている。

「湯島天神も近くにあるんですか」

 と志朗が尋ねようとしたとき、那智さんは今度はくるりと右を向き

「ほら、あの緑青の高いドーム型屋根、あれがニコライ聖堂。 明治中期に建立されたロシア人修道司祭の…」

 遅れてはならじと志朗も

「ええ、知ってます。子供のころ、NHKラジオの〈のど自慢〉でいつも『♪あ~あ/ニコライの鐘が鳴る~』と歌われていた、あのニコライ堂でしょう?」

「うん、そうそう。あちらの湯島聖堂とね、こちらのニコライ聖堂の2つの〈聖〉をつなぐ橋という意味から、大正時代に〈聖橋〉と名付けられたそうだよ。設計者は大胆な放物線を取り入れるデザインが特徴の東大出身の山田守。3年後の東京オリンピックに向け、これから建てる日本武道館も、デザインしたんだって」

 立て板に水のごとく滔々(とうとう)と説明する那智さんをまぶし気に見ながら、 志朗はもはや沈黙して聞くほかなかった。
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駿河台の記者たち⑥

駿河台の記者たち[6]

長瀬千年・作

 

プロローグ

 主婦の友社を左に折れた先が、中央大学である。受験で初めて訪れたとき、志朗は「えっ、こんなに狭く、緑も無いの?」と驚いた。晴れて入学となった今、木々に囲まれた明大を見たあとだけに、その印象は一層強くなった。

 問題はまず、キャンパスの敷地だ。南と北に長さ250メートルほど、東と西に150メートルほどの道路に仕切られた場所が、中央大学の中核である。その北側道路の向こう側に、校舎一棟分の幅のスぺースを持つ。この2つが駿河台校舎の敷地のすべてなのだ。

 中核スペースに建つのは、 戦災を免れた茶系の4層建て校舎が「コ」の字型に3棟。その中央に新しぃ赤茶系の10階建てビル、脇にバロック風図書館が窮屈そうに控えている。四方を建物に囲まれた空間は、全面舗装された中庭である。

 北側の道路向こう西端は大講堂で、その東側は学生生協や自治会などが使用する木造二階建てという感じ。ただ、大講堂の北裏の御茶ノ水駅側に、ホテル風の洒落た7階建てビルが控えている。全国の中大OBが利用する中大会館である。
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駿河台の記者たち⑤

駿河台の記者たち[5]

長瀬千年・作

 

プロローグ

 ともあれ上京した志朗は、中野の民家の2階に間借りする兄美津男と同居することになった。 兄が勤める主婦の友社も神田駿河台にある。だから志朗は、入学準備の諸手続きのため大学を訪れた1週間前、出勤する兄と連れ立って中野を出た。

 国鉄御茶ノ水駅の改札口は2つある。その朝は新宿寄りのホーム後方階段を上って、兄がいつも使う御茶ノ水橋口に出た。 駅舎のすぐ前が、神田川と国鉄線路を跨ぐその橋だ。

「この川の右側が文京区、左側が千代田区。右のあの白いビルが、東京医科歯科大学と病院。その奥が順天堂大学医学部で、その先に束京大学がある」

 自らを物知りと自認して教えたがる兄は、橋の上で志朗にまずは周辺の基本的な地理を説明した。

 へえー、東大も近いのか。志朗は中学の修学旅行で初めて束京に来て、東大〈赤門〉前の旅館に宿泊した往時を懐かしく思い出した。

「実はな、その昔、神田川は無かったんだ。もともとは北側の本郷台と、南側の駿河台は、地続きの神田山と呼ばれていた。徳川の2代将軍のころ、水害防止用に神田川放水路を掘削、江戸城の外濠も兼ねたんだ。そのとき、いまの地形に変わったんだよ」

 なるほど、そうだったのか。江戸の初期にわざわざ川を掘り、 現代になってその川沿いの崖地に線路を敷いたのか。志朗がこれまで抱いていた、御茶ノ水駅付近の特異な地形の謎が、兄の説明ですべて氷解できた。

 教えたがり屋の兄の説明は続く。

「駿河台という地名はな、放水路が出来たあと駿河、つまり静岡出身の徳川家家臣が多く住むようになった。だから、駿河台と呼ばれるようになったんだ」
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駿河台の記者たち④

駿河台の記者たち[4]

長瀬千年・作

 

プロローグ

 志朗が通うのは中央大学である。特段、この大学を熱望したわけではない。8歳上の兄美津男が、他の私大より授業料が少し安いからという理由で、 この大学を選んで卒業した。だから志朗も同じ大学に進学すると親に言えば、懐に余裕のない親でも、東京への進学を認めざるを得まい、と踏んだのである。

 作戦は図に当たり、志朗は法学部政治学科に進むことになった。中大と言えば、国家試験の最難関・司法試験の合格者数が毎年、東大を抜いて全国でトップである。法曹界に多数の人材を出しているから、世間では〈法科の中央〉として知られている。その中核は法律学科である。

 さすがに志朗は、1番人気の法律学科は不合格だった。しかし、もともと法曹界で身を立てようとも思っていないから、とりたてて不都合はない。そんなことより、志朗が一番うれしいのは、中大の所在地が〈千代田区神田駿河台〉であったことだ。

〈神田〉と言えば、神田明神下で岡っ引きとして活躍した銭形平次親分である。恋女房お静と、子分のガラッ八こと八五郎がからむ捕り物帳は痛快だ。志朗の頭のなかのスクリーンに、早速、長谷川一夫演ずる平次親分が出てきた。
 
 もうひとり、江戸っ子の代表のような魚屋の一心太助もいる。べらんめぇ口調で啖呵(たんか)を切るのは、やはり中村錦之助でなければならない。太助がいつも〈駿河台の殿様〉と慕う天下のご意見番・大久保彦左衛門は、それこそ駿河台に屋敷を構えていた。志朗はうれしくてたまらない。少なくとも、これから卒業するまで、毎日のようにその駿河台に通えるのだ。

「いまでも、大久保彦左衛門の屋敷跡は分かるのだろうか。そのうち調べてみよう」

 子供のころから親や周囲の大人と一緒に、浪曲や講談、漫画本や時代劇映画に慣れ親しんだ志朗だから、江戸時代の地名や登場人物はお手の物である。それに好奇心が強いうえ、好きなことにはどんな苦労も厭(いと)わない、という性格も兼ね備えている。

 高校2年秋から3年の夏まで、クラブの新聞部長だった。2ヵ月に1度ずつ校内新聞を発行する直前には、自宅で何度も徹夜して原稿を仕上げ、見出しを考えて割り付けもした。母親はようやく受験勉強に励む気持ちになってくれたかと勘違いし、やれ夜食だ、眠気覚ましのコーヒーだ、と気を遺った。

 父親が交通事故で入院したときは、授業を休んでけなげに家業の本屋の配達を手伝った。だが、作業が終わると仲間たちに会いたくなって、放課後に新聞部へ顔を出して活動した。一度、放課後に担任の先生と廊下で出食わしたときは困った。「授業を休んだのに、いまなぜここに居る?」と詰問され、返答に窮してしまった。

―――つづく=毎週水曜日に更新します

駿河台の記者たち③

駿河台の記者たち[3]

長瀬千年・作

 

プロローグ

 志朗たちが降りた東京行き快速電車は4番線ホームから離れ、線路下に神田川が広がった。上京した志朗が、最初に魅せられた情景の1つだ。今でこそ神田川と呼ばれるが、その昔は江戸城の外濠である。駅名に残った〈御茶ノ水〉のとおり、そもそもは茶道に使われた名水を湧出していたのだ。

 そう考えると、昼間でもときに夢と現(うつつ)の世界を浮遊する志朗の頭だから、今度は江戸時代のお女中姿なども現れてきて、好きな大江戸の世界が膨らんでくるのである。そんなとき、神田川の対岸左方向のおなか部分から、丸っこい赤い模様の電車がヌッと顔を出し、川に架かる短い鉄橋を渡って国鉄側の線路の下に消えた。志朗は一瞬、お濠端で華やぐお女中らの浮世絵の世界を、20世紀の電車が音もなく通りすぎたような錯覚に陥った。
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