駿河台の記者たち54

駿河台の記者たち[54]

長瀬千年・作

 

夏から秋の学習

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 文溪堂の作業所は、島地区の農業地帯にあった。対岸がちょうど、志朗が通った高校である。夏には何度か仲間と泳いで渡り、ついでにここの農家の畑からスイカを盗み取り、川水で冷やして皆でほおばったことがある。

 それにしても、海も無いのになぜ地名が「島」なのか。小さいころの志朗には、ずっと疑問であった。長じて、その謎が氷解した。大雨のたびに長良川の流れが変わり、やがて川筋に囲まれた土地が地名になったという。

 長良川の氾濫による苛烈な事件が、江戸時代中期に県南端の海津町で起こっている。尾張と美濃の濃尾平野を貫流する木曽川、長良川、揖斐川は、下流の川底が高いうえに、これらの川が複雑に合流・分流、を繰り返す地形である。
 さらに小領が分立する美濃国だから、各領主の利害が対立して統一的な治水対策がとれず、洪水が多発していた。

 1753(宝暦4)年、第9代将軍徳川家重は薩摩藩主島津重年に、木曽3川の分流治水工事を命じた。幕府のもう1つの目的は、薩摩藩の財政の弱体化だった。あからさまな嫌がらせに、薩摩藩士から「一戦交えるべき」の強硬論が続出。これを押さえて財政担当家老が総奉行となり、総勢947人が現地に赴いた。

 工事に入っても、幕府側のいやがらせは続く。
堤が三度にわたって破壊され、重労働にもかかわらず、食事は一汁一菜に規制された。藩士61人が抗議して自害し、赤痢の発生などで32人が病死。1年で工事が完了すると、総奉行平田靭負は割腹自殺した。

 その直後、藩士らは薩摩から日向松1000本を取り寄せ、長良川と揖斐川の背割り堤1キロに植えた。一帯は今、日本最大の国営公園・木曽三川公園となり、歴史を刻む「千本松原」は国史跡に指定されている。

 話が少し、長良川に傾き過ぎた。本筋の文溪堂のバイトに戻ろう。作業所は小さな平屋建て。小学校のグラウンドに隣接していた。30歳前後の責任者のほかは、志郎と同じくらいの4人の男女が働いていた。いずれもバイトか。

 仕事は部屋に山積みされた数種類の教材を、学校別の伝票どおり冊数に揃えるだけ。責任者が確認し、ベテラン格の女性と2人て梱包。あとはその表面に宛名書きを糊付けすれば、作業は出来上がりである。午前は2時間、午後3時間の単純な軽作業だった。

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