駿河台の記者たち53

駿河台の記者たち[53]

長瀬千年・作

 

夏から秋の学習


 志朗は自宅近くから市電に乗った。長良川を渡った忠節橋で下車した。右方向に、小高い丘が見える。戦国時代の齋藤道三が隠居した鷺山城跡だ。その後方に長良橋と金華山、その頂に岐阜城が街を見据えている。

 西国から来て機を窺う道三は、鎌倉時代から続く稲葉山城を攻略。そのあと家督を息子の義龍に譲って鷺山に移ったが、その義龍に長良川の戦いで討ち取られる。だが、息女の濃姫を娶(めと)った織田信長は、1567年に稲葉山城を攻めて平定。井ノ口を岐阜と改め、天下布武の号令を発するのだ。

 時代劇映画の好きな志朗が、ふるさとの歴史でもっとも胸躍らせれるサワリである。歴史と言えば、兄3人が途中まで通った小学校をひも解くと、その前身は1872(明治5)年の寺小屋「徹明塾」。2年後に校舎を新築して「徹明義校」と改称、1889(明治22)年、岐阜市が発足して「岐阜市徹明尋常小学校」となった。

 尤(もっと)も周辺地区の人口急増で、1938(昭和13)年にもう一校新設され、兄たちはそこへ転校。志朗も戦後、空襲で焼失したその新設のバラック校舎へ、通うことになったのだがー。

 そう言えば、志郎が春まで通った高校の前身、旧制岐阜中学も1873(明治6)年の開校で、全国で2番目に古い歴史があるーと、教師らの鼻は高かった。校歌にも「千仭(じん)の嶽(たけ)金華山/百里の水長良川/誇る最古の歴史ある/我が高校の誉れをばー」とあった。

 徹明義校も旧制岐阜中学も、考えてみれば明治初期の開校である。ということは、岐阜は随分と教育に熱心な土地柄とも言える。
 そうか。だからこの岐阜の街に、学校教材を専門とする出版社が存在するのか。

 わずか4ヵ月ながら東京で学んだ志朗は、日本の政治・経済・文化をけん引する首都機能を垣間見て来た。だから学校の教材類も当然、東京で編集出版され、全国の津々浦々に発送されると思い込んでいた。

 それなのに、志郎の自宅の近くに文溪堂が存在し、顔なじみのそこの奥さんからバイトを頼まれた。よく事情を呑み込めないでいた志朗は、実は心の片隅で文溪堂の存在を、少しだけ訝(いぶか)っていたのだ。

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