花井卓蔵生誕150周年

花井卓蔵生誕150周年

本学の「顔」大法曹家・大政治家

 日本を代表する各私立大学には、しばしばその大学を代表する「顔」と呼べる人物が存在し、その「顔」の存在によって、大学そのもののブランド力さえ左右されている。早稲田の大隈、慶應の福沢、同志社の新島、多くの場合「顔」はその大学の創設者であり、その大学の象徴たる人物である。
 それでは中央大学の場合ではどうであろうか。中央大学には確立された「顔」とよばれる人物がいない。
 
 そもそも英吉利法律学校として創設された中央大学には、創設者が18名もいる。初代校長として本学の基礎を形作った増島六一郎、後に日本初の法学博士となり枢密院議長にも就任する穂積陳重、私立大学がまだ一般的でなかった当時において、日本の学問を発展させたいという情熱にかられ、本学創設に奔走した18名の法律家たちは、もちろんその全てが本学を象徴する偉大な人物であることは間違いない。だが、彼らは総じて学問という一側面に縛られているという感じが否めない。早稲田の大隈にしろ、慶應の福沢にしろ、「顔」と呼ばれる人物たるには、多分野において大学を代表する存在でなければならない。
では誰が中央大学の象徴、「顔」たる人物としてふさわしいのであろうか。
 中央大学やその歴史について少しでも学んだことのある人間ならば、恐らくその全員が花井卓蔵の名を挙げるであろう。

『花井の前に花井なく、花井の後に花井なし』


 中央大学創設者の一人である穂積陳重は、古代ローマの大法曹家であり、大政治家でもあったキケロと花井卓蔵とを比肩している。花井卓蔵はキケロと同じくまさしく大法曹家であり、大政治家でもあった。
 明治元年に広島県御調郡三原町(現在の三原市)に生まれた花井卓蔵は、明治18年英吉利法律学校創設と同時に入学。明治21年、英吉利法律学校第1期生として卒業するや、翌々年には代言人試験(現在の司法試験)に合格、法曹界の最年少者としてその第一歩を歩みはじめた。法曹家として、昭和4年弁護士会を退会するまで40年、その間に担当した刑事事件は約一万件を数え、国家社会のために尽くした貢献は多大のものがあり、三十歳前後には、すでにその人気と名声をほしいままにしていた。
 明治34年の一大刑事事件「星亨暗殺事件」では、「奇警にして論理明快」とも絶賛される名弁論を展開し、法曹界の重鎮として名実ともに世に広くその真価を発揮した。
 また花井卓蔵は、明治31年に行われた第六回総選挙に立候補当選し、若干30歳にして立法者として国会の場に立つと、一人一党主義に徹しながら、時には名副議長として政局の難関を突破し、刑法の集大成を成しとげた。大正11年6月、終身貴族院議員に任ぜられた後には、開院以来最大の論議といわれる『陪審法案』成立に努力し、或いは、反対派若槻礼次郎との12時間にわたった大論戦等、今尚、語り伝えられていることは枚挙にいとまがない。『法の代表者、花井卓蔵』の名は、国家に重んじられ、民衆からは限りない声望を集めていた。
 このように大法曹家、大政治家として身を為した花井卓蔵は、明治42年には私学出身者として初の法学博士の称号を授与され、本学学生の信望を一身に集めており、人をして『中央の花井か、花井の中央か』と言わしめるほどであった。
 後に学長を再三再四熱望されるも、その都度固辞し、ただひたすらに本学発展に寄与した花井卓蔵の姿は、まさしく本学を代表、象徴するものであり、中央大学の「顔」として最もふさわしいといえるだろう。

 
 中央大学は来年度に26年ぶりとなる二学部の新設、その翌年には看板学部である法学部の都心回帰を控えている。中央大学ブランドの復活を声高に叫ぶ今こそ、花井卓蔵を大学の象徴たる「顔」として学内外に発信すべきではないだろうか。(樋口)

11月11日、中央大学駿河台記念館において、第58回花井卓蔵杯争奪全日本雄弁大会(花井卓蔵生誕150周年記念大会)が本学辞達学会主催に於いて開催された。大会の結果等、詳しい内容については、次号中央大学新聞1271号において特集する。

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