駿河台の記者たち㊼

駿河台の記者たち[47]

長瀬千年・作

 

国会突入

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 さすがに志朗も、うんざりした。マルクスもレーニンもトロツキーも、まるで知らないノンポリの志朗だが、少なくとも三派に分裂した彼らは、安保闘争でそれぞれ先頭に立って、学生たちを国会デモに導いていた。国の行く末を憂える姿は純粋で、人々に勇気を与えた。

 しかし今、目の前の三派の言動は何という体たらくか。互いが自派を正当化し、他派のこきおろしに全精力を注いでいる。これが三派の〈安保総括〉というのなら、あまりにも恥ずかしい。

 それにしても、身動きできないほどのデモ津波が、国会の周囲を幾重にも取り囲み、岸政権を揺さぶり続けたあの安保闘争。そのうねりは、全国津々浦々にも及んだ。それなのに、新安保の自然成立のあと、戦後日本で初めて目覚めたあの国民的大運動の〈総括〉はどうなったのか。

 少なくとも、新聞各紙を読む限り、腰を据えて60年安保を論じる記事は出てこない。7社共同宣言のあと、日本のマスコミはやはり腰が引けたのか。となれば、月刊総合誌の『世界』や『中央公論』、あるいは硬派の週刊誌『朝日ジャーナル』を待つほかない。

 朝日ジャーナルは〈報道・解説・評論〉を3本柱として、前年の59年3月に創刊された。その3年前に新潮社から『週刊新潮』が創刊され、出版社の週刊誌ブームとなり、時まさに週刊誌発刊ラッシュの渦中だった。

 朝日ジャーナル発刊と同じ年の3月、社会党と総評(共産党はオブザーバー)などで、〈安保改定阻止国民会議〉が形成された。紙面のニュースを深掘りする朝日ジャーナルは、この〈反安保〉の時流に乗る形となり、学生や一般のインテリに支持されて、発行部数はいきなり37万部に及んだ。

 志朗なりに、60年安保を振り返ってみた。5月19日に政府・与党が国会内に警官隊を導入。座り込んでいた社会党議員を排除して、新安保条約案を強行採決した。これを境に〈安保反対〉の世論が、怒涛のごとく動く出したことは確かだ。

 ただ冷静に見つめ直すと、このとき世論は〈安保反対〉から、議会民主主義を守れと〈岸内閣打倒〉へ傾斜したのではないか。岸信介は戦前の東条内閣の閣僚で、A級戦犯容疑者だった。その岸首相への反感が一気に強まり、〈岸内閣打倒〉へ要求がすり替わったように思える。

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