駿河台の記者たち㊳

駿河台の記者たち[38]

長瀬千年・作

 

国会突入

 そのころ、中大と同じように〈客観報道〉を旨としていたのは、東京大と明治大。2紙とも週に一回発行の週刊紙で、東京大学新聞は近辺の書店でも売っていた。これらの大学新聞は、いずれ日刊紙の記者になりたいと願い、大新聞に倣って活動していたとも言える。

 しかし自治会の中で、国を憂いて反安保に取り組む石居たちにすれば、自治会と距離を置く中大新聞が歯がゆいのだろう。だから、つい口から「ブル新」と皮肉るのだ。それはそれで仕方のないこと、と志郎は考えながら、会室に戻った。

「みんな元気かな? おお、新しい顔ぶれが増えたな」
「先輩の皆さん、いらっしゃい」
 優内編集長が背広姿の3人を丁重に迎え入れ、志郎ら新人を紹介した。

「安保もいいが、ほどほどにな。共産主義は好かん」
 山一証券勤務で、1953(昭和28)年卒業という木多谷和男は、周りを圧倒するほどの大声だ。〈あれ?〈右翼か〉と思わせる話し方に、志郎は少し驚いた。

 3人は10年前の先輩たちで、暇を見つけては訪れるという。あとの2人は検事になった手縞廣市と、小さな出版社を起こした摩鍋隆志。二人とも鍛矢が話している間は、じっと聞いているだけだった。

 3人が別室に入ったあと、今図が志郎らに説明した。
「木多谷さんはなぁ、事情はよく分からんが、1年生の秋から卒業まで、ずっと編集長をやった大変な人なんや」
 聞けばその当時、大学運営の評議員選考をめぐり、現職理事の独裁的運用が明るみに出た。これを中大新聞が報道すると、学内は騒然。学生新聞の大学当局批判は許されるのか~の議論に飛び火した。その火中の栗を拾う形で、編集長になったのが木多谷だという。

 もう一つ、武勇伝が残っている。戦後のGHQ(連合国総司令部)によって、合法化された日本共産党。勢いを得て各大学にも末端の細胞組織を設け、中大の自治会にもその動きが出た。木多谷らが「それだけは阻止」と、中大新聞を武器に徹底抗戦したというのだ。

〈それが、共産主義嫌いの原点なのか〉
 混沌としていた戦後間もない時代を考えれば、木多谷先輩の右翼的な言動の意味が、志郎にも少し理解できた。あとで知るのだが、その木多谷は大学の大先輩でジャーナリストの長谷川如是閑を口説き落とし、新聞各社や雑誌社を回って、中大OBによる親睦団体〈白門ジャーナリスト会議〉を結成したという。

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