駿河台の記者たち⑭

駿河台の記者たち[14]

長瀬千年・作

 

60年安保

「5月末に自治会の選挙があります。そこでクラス委員を選ぶまで、臨時の世話人として4人選んでほしい。『我は』という人、手を挙げて~」

 志朗は困った。〈学生数が多いこの中大で、自分をどう引き出し、どう確立するか〉と日記に書いた手前、今こそ挙手しなければならない。しかし、やっぱり小恥ずかしい。周囲を見ても、その気配がない。えーい、やぶれかぶれだ~と志朗が手を挙げると、あちらで1人、こちらで1人と4人が揃った。

 1人目は大阪出身の今西と言った。「何も出来へんと、思いますねん」と大阪弁を発した。あとは束京育ちの松本と大原。松本は、やたらに末尾に東京特有の「ねぇ、ねぇ」を付ける口調。大原は良い家庭で育った坊ちゃん風~という感じ。このとき志朗は、それにしても3人とも、自分と同じように〈お人良し〉なのが、うれしかった。

 クラスはこのあといったん解散し、 志朗ら世話人4人が大錦委員長を囲み、今後について話し合った。まずはクラス名簿の作成。次はクラス写真の撮影の手配。それに1番骨の折れる〈安保討議〉を進めることとなった。

「安保反対は当面、4・26の統一行動日に向け、クラスで〈授業放棄〉に持ち込んでもらうことだ。よろしく頼むよ」

 世話人4人は〈日米安保批准阻止〉や〈全学連〉と言われても、その言葉を新聞やラジオで見聞きしているだけ。うろたえている様子の4人を見て、大錦は「ここぞ、オルグ」とばかり、概略を話した。

 まず〈安保〉。正式には〈日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約〉。太平洋戦争の敗戦から6年後の1951年、連合国が初めて日本の主権を認めた〈サンフランシスコ講和条約〉の締結時に、ともに結ばれた。

 米軍に日本国内の駐留・配備を認め、極東の平和と安全の維持、日本政府の要請で国内の騒擾(そうじょう)や内乱の鎮圧、外部からの武力攻撃の阻止に使用できるとなっている。

 それから7年経た1958年、岸信介首相が日米安保の改定を表明し、 日米会談で改定へ向け交渉が始まった。

 これに対して59年3月、社会党と総評、共産党(オブザーバー)が〈安保改定阻止国民会議〉を設けた。6月の第3次統一行動では、39都道府県で160万人が参加。その後、文化人や芸術家、各大学教官らが呼応している。

 一方の〈全学連〉は~。正式名は〈全日本学生自治会総連合〉。1948年にGHQ(連合国軍総司令部)が、国立大学の地方自治体委讓案などを打ち出し、これに対する抵抗運動が誕生のきっかけ。6月に東京・日比谷に5千人が集結してデモ。全国の官公立大学に私立系も支援、114校がストを実施した。全学連はその年の9月に結成され、国公私立145校が参加した。

 しかし56年、ハンガリーの反政府デモにソ連が軍事介入。日本共産党がソ連を支持したため、全学連や学生党員らが反発。元学生党員らが〈トロツキスト連盟〉を結成し、〈日本革命的共産主義者同盟〉に改称。後に〈革マル派〉と〈中核派〉に分派する。

 さらに58年、日本共産党を除名された全学連主流派が、〈共産主義者同盟(ブント)〉を結成。翌59年6月の全学連大会で、ブント執行部・唐牛健太郎(北海道大) が主導権を握った。

「俺たち、そのブントさ。日和見(ひよりみ)主義に堕落した共産党に、見切りをつけたのさ。4・26の統一行動も、共産党系の全学連反主流派は、国会へお焼香の請願デモ。だが俺たちは、国会正門から堂々と大衆的に『安保批准阻止』を勝ち取る。それにはまず、クラスで授業放棄を可決しなきゃ。頼むよ」

 大錦委員長の話し方が、初めて学生活動家風に変わった。しかも「クラスで授業放棄の可決を」の指示。4人は戸惑いながら、顔を見合わせた。

―――つづく=毎週水曜日に更新します

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