駿河台の記者たち⑧

駿河台の記者たち[8]

長瀬千年・作

 

プロローグ

 入学式の式場は、2階席もある1500人ほど収容の大講堂だった。式は法学部が先頭の午前10時半だったが、そのあと1時間半ごとに経済学部と工学部、商学部と文学部が合同で続き、さらに午後5時半からは夜間部の入学式―。入り口の看板に、そう書いてあった。

 昼に働く学生たちが通う夜問部だから、入学式が夕方からの設定は当然である。だが、同じ昼問部が学部別に3回にも分けて催すことに、志朗はびっくりした。さすが大東京の大学だという驚嘆と、この大学には一体どれだけの学生がいるのか、とも思った。

 さて話は冒頭に戻り、いよいよ大学の授業が始まる初日だ。最初の1週間はまず、新入生に対して語学以外の一般教養科目の紹介授業である。各教官がそれぞれ、どういう授業を展開するか、学生たちに知ってもらって受講してもらうためのPRともいえる。 志朗は興味を抱いて、殊勝にも1講目から出ることにした。

 到着すると、キャンパスは、学生でごった返していた。どこを見ても、ほぼ真っ黒い男子の詰め襟・学帽の集団。その中に、わずかに白や赤の色どりを添える女子が混じっていた。

 志朗はそんな混雑から、中小路に逃れた。そこには大きな立て看板が、いくつも立ち並んでいた。入学式の時には全学、横目でチラリと見ただけだった。改めていくつか眺めて読んだ。

〈日米安全条約の批准、必ず阻止するぞ!〉
〈全学スト! ゼネスト決行‼〉
〈岸内閣をブッつぶせ!〉

 赤や青、緑、紫などのぺンキ文字が、張り合わせたべニヤ板いっぱいに躍っていた。看板の制作者として、それぞれの看板に〈昼自治会〉や〈夜自治会〉、〈社会主義者同盟中大班〉などと書かれている。志朗にはまだよく理解できなかったが、60年安保闘争の火ぶたが切られ、新学期とともに中大でも燃え盛ろうとしていたのだ。

 志朗は受講する教室に向かった。すでに入り口は、ごった返していた。教室内へ入ろうとしても、入り切れない学生でいっぱいなのだ。ちらりと見えた限りでは、中は200人ほど収容する大教室なのに。

「なんだ、これは?」
 志朗が初めて、学生の数の多さを実感した瞬間だ。

「まぁいいか。それより、周辺の神田験河台を探検したほうが面白そうだ」
大学の授業をさほどありがたがる志朗ではないので、方向転換も早い。大学から出ようと廊下を進むと、出入り口近くで長机を出していた男子学生に声をかけられた。

「中大新聞の学園紹介号はどうですか。1部10円です」
へぇー、中大新聞というものがあるんだ。志朗は、なんとなく買った。志朗と中大新聞の初めての出会いだった。発行は「中央大学新聞学会」「毎月10、20、30日発行」とあった。

 紙面は全体で8ページである。1面の上半分は、前面に神田川を配した御茶ノ水駅の夜景。
漆黒の闇の中で、中央に電球で明るく照らされる国鉄の長いプラットホーム。その駅下にもぐろうとする地下鉄丸の内線の車両が、左端でほのかに明かりを灯している。昼間は濁り切って異臭を放つ川面も、闇の中では周囲の明かりを絶妙に映す名脇役である。

 編集部が綴った下段の〈中央大学の歩んだ道〉も、志朗には興味深かった。
「明治18(1885)年に神田錦町に産声を上げた中央大学は、当時の英法界の権威19人によって創設され、校名を英吉利法律学校といった。学生数わずか97名」

「そのころ日本の法曹界は、深遠な法理を尊ぶ仏蘭西法学が支配。英吉利法学は従属的な立場であった。しかし、社会は『実利』を重んじ、実際的な法の運用を求めるようになり、これに応えたのが英吉利法律学校である」

 とにもかくにも〈古い権威〉に代わって、社会が求める〈実利〉に舵を切った中央大学の建学精神が、志朗にはうれしかったのである。
――「プロローグ」は終わり。次回から「60年安保」
―――つづく=毎週水曜日に更新します

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