駿河台の記者たち④

駿河台の記者たち[4]

長瀬千年・作

 

プロローグ

 志朗が通うのは中央大学である。特段、この大学を熱望したわけではない。8歳上の兄美津男が、他の私大より授業料が少し安いからという理由で、 この大学を選んで卒業した。だから志朗も同じ大学に進学すると親に言えば、懐に余裕のない親でも、東京への進学を認めざるを得まい、と踏んだのである。

 作戦は図に当たり、志朗は法学部政治学科に進むことになった。中大と言えば、国家試験の最難関・司法試験の合格者数が毎年、東大を抜いて全国でトップである。法曹界に多数の人材を出しているから、世間では〈法科の中央〉として知られている。その中核は法律学科である。

 さすがに志朗は、1番人気の法律学科は不合格だった。しかし、もともと法曹界で身を立てようとも思っていないから、とりたてて不都合はない。そんなことより、志朗が一番うれしいのは、中大の所在地が〈千代田区神田駿河台〉であったことだ。

〈神田〉と言えば、神田明神下で岡っ引きとして活躍した銭形平次親分である。恋女房お静と、子分のガラッ八こと八五郎がからむ捕り物帳は痛快だ。志朗の頭のなかのスクリーンに、早速、長谷川一夫演ずる平次親分が出てきた。
 
 もうひとり、江戸っ子の代表のような魚屋の一心太助もいる。べらんめぇ口調で啖呵(たんか)を切るのは、やはり中村錦之助でなければならない。太助がいつも〈駿河台の殿様〉と慕う天下のご意見番・大久保彦左衛門は、それこそ駿河台に屋敷を構えていた。志朗はうれしくてたまらない。少なくとも、これから卒業するまで、毎日のようにその駿河台に通えるのだ。

「いまでも、大久保彦左衛門の屋敷跡は分かるのだろうか。そのうち調べてみよう」

 子供のころから親や周囲の大人と一緒に、浪曲や講談、漫画本や時代劇映画に慣れ親しんだ志朗だから、江戸時代の地名や登場人物はお手の物である。それに好奇心が強いうえ、好きなことにはどんな苦労も厭(いと)わない、という性格も兼ね備えている。

 高校2年秋から3年の夏まで、クラブの新聞部長だった。2ヵ月に1度ずつ校内新聞を発行する直前には、自宅で何度も徹夜して原稿を仕上げ、見出しを考えて割り付けもした。母親はようやく受験勉強に励む気持ちになってくれたかと勘違いし、やれ夜食だ、眠気覚ましのコーヒーだ、と気を遺った。

 父親が交通事故で入院したときは、授業を休んでけなげに家業の本屋の配達を手伝った。だが、作業が終わると仲間たちに会いたくなって、放課後に新聞部へ顔を出して活動した。一度、放課後に担任の先生と廊下で出食わしたときは困った。「授業を休んだのに、いまなぜここに居る?」と詰問され、返答に窮してしまった。

―――つづく=毎週水曜日に更新します

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