駿河台の記者たち③

駿河台の記者たち[3]

長瀬千年・作

 

プロローグ

 志朗たちが降りた東京行き快速電車は4番線ホームから離れ、線路下に神田川が広がった。上京した志朗が、最初に魅せられた情景の1つだ。今でこそ神田川と呼ばれるが、その昔は江戸城の外濠である。駅名に残った〈御茶ノ水〉のとおり、そもそもは茶道に使われた名水を湧出していたのだ。

 そう考えると、昼間でもときに夢と現(うつつ)の世界を浮遊する志朗の頭だから、今度は江戸時代のお女中姿なども現れてきて、好きな大江戸の世界が膨らんでくるのである。そんなとき、神田川の対岸左方向のおなか部分から、丸っこい赤い模様の電車がヌッと顔を出し、川に架かる短い鉄橋を渡って国鉄側の線路の下に消えた。志朗は一瞬、お濠端で華やぐお女中らの浮世絵の世界を、20世紀の電車が音もなく通りすぎたような錯覚に陥った。

 その電車は、6年前に開業した営団地下鉄丸の内線である。東京の地下鉄第1号は、昭和2(1927)年に東京都が浅草―日本橋―銀座―渋谷を走らせた銀座線だ。それから実に24年ぶりに、2つ目の地下鉄として登場したのが丸の内線である。池袋―後楽園―御茶ノ水―東京―銀座― 国会議事堂―赤坂見附―新宿を結んでいる。

 その丸の内線に〈御茶ノ水駅〉が加わっていることを知って、志朗はまたまたうれしくなった。

 ほら見ろ。おれが通う大学の街に、まだ2路線しかない地下鉄の駅もあるんだぞ、と周囲に吹聴したい衝動にかられた。

 志朗の〈御茶ノ水〉贔屓(ひいき)の目盛りが、また1つ上がった。

 とはいえ、肝心の眼下の神田川は、周囲の生活用水が流れ込んで濁り切っていた。 メ夕ンガスが噴出する死の川という様相で、焼玉エンジンのポンポン船が多数往来している。周辺から住民らの屎尿(しにょう)を運び出す汚埃(おあい)運搬船である。ホームで鼻を手で押さえ、眉をひそめる紳士淑女もいる。

 だが志朗は、汚埃船くらいではたじろがない。終戦後の食料不足の時代の中学1年生まで畑を耕し、街の中を大八車で肥料になる糞尿を運んでいたからである。 だから、目の前の汚挨船を「汚い」と、無下に否定できないわけだ。

 それに、だー。人間、食すれば、出す物は出さなければならない。それが人間の生命であり、社会の営みではないか。その営みこそが社会の、国のエネルギーの源ではないのか。見よ!この神田川の汚挨船の群れを!

 夢と現の世界をさまよう志朗は、いまや社会学者か何かになったような心地で、それらしき文言を引き出してつぶやいた。

 志朗が大学に入った前年の1959年5月、東京はアジアで初のオリンピック開催地に決まった。64年10月の開催に向け、国立競技場など膨大な施設のほか、束海道新幹線と東京モノレール、首都高速や東名高速道路を建設する国家プロジェクトが、一気に轟音と共に動き出したのだ。

 志朗のこのときの高揚感は、戦後復興の中で取り残された目の前の現実と、国家プロジェクトとしての東京大改造という時代背景が影響していたのかもしれない。いずれにしろ、太平洋戦争で敗れた日本が、瓦礫の中から復興を果たし、東京オリンピックの開催で初めて国際社会に仲間入りしようとしている。 そういう時代に、志朗の大学生活が束京で始まったのだ。

―――つづく=毎週水曜日に更新します

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