“海軍第十四期会 最後の總員集合”


 本年5月27日、ホテルグランドヒル市ヶ谷にて「海軍第十四期会『最後の総員集合』」が開かれた。因みに読者諸兄は、この催しが5月27日に挙行された理由をお分かりだろうか。それは、「この日が戦前に『海軍記念日』とされていた、めでたい日だから」である。
 尤もこれは、戦後生まれの多くの人にとって馴染みの無い名前だろう。「海軍記念日」とは日露戦争 中の明治38年、当時世界一の海軍力を誇ったロシアのバルチック艦隊を大日本帝国海軍が撃破した戦勝記念日なのだ。それ故、戦前の日本では5月27日を「『日本海海戦』戦勝の日」として広く祝って来たのだが、この同期会もそんな佳日に合わせて行われたのである。
 そんな祝福すべき日に開催された今回の集まりは、いわゆる学徒出陣組である海軍第十四期飛行専修予備学生の総会であり、全国規模としては最後となるものでもあった。因みに本来の「海軍飛行専修予備学生」、通称「予備学生」の制度とは、志願により旧制大学等の出身者を採用し、速成の訓練を経て少尉に任ずるものである。この様な方式で未来の士官候補生を外部から採用していた予備学生の制度であったが、その中でも第十四期生は学徒出陣組の中から、つまり戦況の悪化に伴い公布された昭和18年の「在学徴集延期臨時特例」に基づき徴兵対象となった文科系学生の中から、試験等により選抜された元海軍士官の方々だ。
 さて、ある御縁からこの総会へ出席する機会に恵まれた私は、隣席した十四期生の方から貴重なお話を拝聴する事が出来た。そこで皆さんにも、その内容をお伝えしたいと思う。
 
*  *  *
―まずは出征前後のお話を聞かせて下さい。
「私は東京に生まれ広島で育ち、出征前には慶應大学で学んでいました。在学中に徴兵された後は二等水兵として佐世保の海兵団へ入りましたが、昭和19年の1月には土浦航空隊に配属され、2月1日をもって予備学生となりました。私はこの時の適正検査で右目が弱いという判定を受けましたので、航空機の搭乗員としては不適とされ、鹿児島の航空隊に事務系要員の士官として行く事になったのです。ここでは基礎教程、つまり士官としての資格を身につける訓練を受けました」

―その訓練とは、どの様なものだったのでしょう。
「特に記憶しているのは、土浦時代の早朝運動ですね。2月の寒い時期なのに、パンツ一丁になって飛行場で海軍体操をするんですよ。これが全然、体が温まるものじゃない(笑)。その後に飛行場を駆け足して、漸く体も温まってくるんです」

―その後の軍隊生活は。
「昭和20年の4月頃には、広島の呉市外れにあった第十一航空廠で事務仕事をする様になりました。特に7月頃からは宮島で、作りかけのトンネルへ九州から運ばれてくる爆弾を搬入し保管する作業に、監督者としてあたっていたんです。実はこの中に3号爆弾というものが10発ほど含まれていたのですが、これは沖縄などでは気温の関係から自然爆発してしまうような爆弾でした。その為、私は番兵を置いて爆弾の温度を遂次確認させる様にし、もし温くなっていたら海へ捨てろと指示をしていたのです。その後、私は7月末に呉へと戻りました」

―被爆のご経験は。
「直接の被爆経験はありませんね。8月6日は呉に居てキノコ雲を見ました。先に地理的関係をお話しておきますと、呉から見て広島が手前側、そしてその向こうに宮島があります。そのため6日の爆発は、例の3号爆弾が自然爆発し、それによって他の爆弾も誘爆したものだと思った訳です。そこで上司の中佐と車に乗り込み宮島へ向かったのですが、呉から広島市内に向かう途中で大勢の人が逃げて来ました。車を降りて『どうしたんだ』と彼らに尋ねると、『B29の落とした一発の爆弾で広島が火の海になってます』と言うんです。そこで広島へ急ごうとしたんですが、『そんな車じゃあ市内に入れませんよ』と言われたものですから、辺りに居た負傷者を10人ほど車に積め込んで呉へ引き返した訳です」

―終戦の思い出は。
「私は終戦を呉で迎えました。実は私を含めた若手士官は8月8日頃に鎮守府長官から呼び出され、すぐにも戦争が終わる事を聞かされていたんです。勿論、日本が戦争に負けたとは言われていませんでしたがね。その時には長官から、『ドイツは第一次大戦後の酷い条約のせいで苦労したが、ヒトラーの下では再軍備が進んだ。私も貴様達の15年後に期待する』と言われたんです。恐らくこれは、1919年のベルサイユ条約から十数年後の1935年にヒトラー政権が再軍備宣言をしましたので、その事を引き合いに出したのでしょう。そう言えばこの話は、私も今迄に色々な戦争関係の本を読みましたけれども、どこにも載っていないんです。一体どうしてでしょうね。
 まあ、そんなこんなで8月15日を迎えた訳ですが、陛下の詔勅があるという事で補給部長の大佐から集められ、ラジオを聞きました。いわゆる玉音放送だった訳ですが、実は音が悪くて何を言っているのか分からなかったんですよ。私が敗戦を知ったのは、その日の夕方でしたね。『さてこれからどうしようか』と思っていた所、どうやら厚木の分隊が戦争継続のビラを撒いたらしい事を聞き、我々の部隊でも戦争を続けるかどうか話し合う事になったんです。18日の夜頃でしたか、20名程の若手士官と数名の佐官とが集まったのですが、先任中佐が戦争継続を訴えると他の者も「そうだそうだ」と賛同していました。それに対して大佐が『他に意見は無いか』と言ったものですから、思わず私は挙手してしまい、『詔勅が下りたんだから、日本を復興させる事こそが使命だと思う。あちこちでアメリカに反抗しても意味が無いんじゃないか』と発言したんですよ。そしたら周囲は凄い剣幕で反発して、『貴様をぶった斬って戦争を継続する』なんて言うんです。余りに収拾がつかなくなってしまったので、大佐から解散の号令が出て皆が自室へと戻ったんですが、私は『どうせ殺されるなら、一人の軍人として刺し違えてやろう』と思い軍刀を手に待っていました。ところがいくら待っても誰も来ず、遂に私もくたびれて寝てしまったんですが、翌朝には皆、何事もなかったかの様にケロッとしていましたね(笑)。尤もこの話は今に至るまで、誰も口にしませんが…。因みにそれから数日後、特務士官だった少佐と士官食堂で昼食を摂ったんですが、『よくあれだけのことが言えたと思う、僕も君と同じ考えだったが、あの雰囲気では言い出せなかったよ』と言われました。我が意を得たり、と思いましたね」
―お話、有難う御座いました。今日は残念ながら時間となってしまった様です。また今度、お話を聞かせて下さいね。 (進)

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