東国原英夫氏 講演会開催

東国原英夫氏
 昭和32年9月16日、宮崎県都城市生まれ。ビートたけし氏の一番弟子となる。平成19年に宮崎県知事に就任し数々の改革を行った。

 今日は、寒い中を沢山の方々にお集まり頂きまして、有難うございます。中央大学には初めて伺ったのですが、非常に綺麗で素晴らしいですね。

【タレントから政治家への転身について】
 私は今(執筆者注、昨年12月9日当時)、東京都知事選を控えているという事情が有りまして、無職で御座います。このような身の上である私ですが、皆さんからはしばしば、「タレント」から「政治家」へ転身した経緯についての質問を頂きます。ですので、今回はそこにも触れてお話をしていきますね。
 
まずこれは、「子供の頃からの夢」に立脚しています。よくあるような、「お医者さんになりたい」とか、「花屋さんになりたい」等といったものですね。そういえば、ちょっと話はズレますが、今の子供達の夢は凄いと思います。というのも、夢が「正社員」ですしね。

 さて、話を元に戻しますが、僕が小さい頃に抱いていた将来の夢と言えば、「フランス人になる」というものでした。この理由は、単純にナポレオンが好きだったからです。「自由」「平等」「博愛」の精神云々からではなく、ナポレオンが純粋に格好良かったのですね。いつも怒ってばかりの先生に私の将来の夢を正直に話しましたところ、顔を真っ赤にしながら「頑張ればなれる!」と仰って下さいました。それで、頑張れば夢と希望は叶う、と確信するようになったのです。
 
 しかし、やはりフランス人にはなれないということが分かってきましたので、小学校六年生の時、「『政治家』と『お笑い芸人』になりたい」と思うようになり、その訳を、「この職業は、共に人を幸せにする仕事であるからです」と先生にも伝えました。政治家になりたいと思うようになったのは、焼け野原からの復興を、更には高度経済成長を、我慢強い国民と共に政治家が主導していったからです。また、お笑い芸人になりたいと言ったのは、テレビ世代である我々ですから、テレビの中で働きたいという願望が自然と育ったのでしょう。ちなみに、野田現総理は私と同じ昭和32年生まれですが、小学校六年生の時の卒業文集には「総理大臣になる」と書いたらしいです。有言実行ですね。
 
 さて、そうして私は高校卒業と同時に、ビートたけし氏の一番弟子になりました。そういえば、野田氏は「松下政経塾」、僕は「たけし塾」の共に一期生なのですね。話を戻しますが、ある日、私はビートたけし氏の楽屋に忍び込み、弟子入りを志願しました。すると、たけし氏は一言、「運転は出来るか」とおっしゃられたので、私が「はい」と答えたことで、まずは運転手としてお世話になるようになったのでした。これは後日談なのですが、当時たけし氏は付き人兼運転手を募集していたらしいのです。しかし皆、たけし氏が持つ威圧感からか、何とは無しに彼に対して怖いという感覚があったようですね。

 さて、運転というのは、つまるところ採用試験がわりのようなものですから、私は毎日、緊張しながら運転していました。そんな時、師匠がものを考えている時の癖である「左肩を上げる」というものを、左へ曲がれという指示だと勘違いして左折したのですが、たけし氏が指摘するまで私は延々と左折を続けていました。そんな私のことを「面白い」と評価して下さり、正式に採用されることとなったのです。

 月日は経ち、たけし軍団が大きくなっていくことで、僕も冠番組を持てるようになりました。しかし、番組が始まる三日前に、「フライデー襲撃事件」が起こってしまったのです。

 私は行きたくなかったので、エレベーターが定員オーバーになりそうなことを言い訳に、仲間には「私は見張っておくから」と伝えたのです。すると、彼らからは「リーダーのお前が乗らずにどうするのだ」と言われました。そこで、一番最後に乗り込んだところ、なんとエレベーターは音がならずに動いてしまいまして、翌日の新聞には「そのまんま東、先頭を切る」と書かれたのです。やはり何事も、消極的に参加すると、いいことは無いですね。

 それで、自宅謹慎ですよ。お先真っ暗とはこのことです。ですが、こういう時にこそ、人間の真価が問われるとも思うのです。七転び八起き、人間万事塞翁が馬ですね。毎日毎日、暇で仕方なかったですし、温めていたネタもありましたので、推理小説を書くことにしました。それが、『ビートたけし殺人事件』というタイトルの本なのですが、様々な芸能界の裏話を、ふんだんに盛り込んで有ります。自宅謹慎が解けて芸能界に復帰した後、知り合いの出版社の方にこれを見せたところ非常に高い評価を頂きました。そして書籍化されてベストセラーとなり、ドラマ化もされました。今思うと、そうやって運命は切り開かれていったのでしょうね。しかも、そのドラマで知り合った主演女優と、向こうからのお誘いでお付き合いする事となり、最終的には結婚にまで至りました。

 そんな時、ある不祥事で自主謹慎をしたのですが、そこで自己の変革を図ると共に、何か地域貢献や社会貢献ができないかと一年発起して、政治家を目指し大学へ入りました。そこでは様々な教えに触れることが出来たのですが、「日本において、地方は国の受け皿になっており、自立せねばならない」と考えるようになりました。そして大学を卒業し、地元に戻って宮崎県知事選挙に出馬したは良いものの、「大学で地方自治を学んできた程度で出馬などおこがましい、そのまんま東が知事になったら宮崎県民をやめる」と答えた県民が、当時は実に8割を占めておりました。完全無所属でしたので、公職選挙法も独学で学び、「88項目のマニフェスト」を打ち出して地道な選挙活動を続けていきましたところ、私への評価も変わっていきました。そうして迎えた投票日、開票時間にNHKの大河ドラマを見ていましたところ、「そのまんま東氏、当選確実」の速報テロップが流れました。

【県知事として】
 それからは、いきなりの所信表明演説です。3000人程もの、ビシッと決めた公務員の前で、局長、部長、次長クラスの人間からは恨めしげな視線を受けつつ、私はこう言いました。「この県に、裏金は御座いません」。この言葉を聴いて、部長達は慌てふためきました。というのも当時は、予算の余剰分を着服して、私的に流用していたことが問題になっていたからです。「もし裏金があるのならば、自発的に明らかにして下さい。今がチャンスです。信頼が失墜しているところから、脱却していきましょう」。それから一ヶ月後、出先機関からは450万、1200万、と書き換えが届くようになりました。本当に嬉しかったですね。そこから更にぞろぞろと出てきて、総額は3億7000万円にもなりました。こうして、県民の皆様からも「なかなか良い仕事する」といった評価を頂くようになったのです。そして、予算組みの時には職員と一緒になって、勉強の意味も込めて泊まり込みで作業をしていきました。

 ところで、公務員の皆さんが生きる世界は、非常に真面目なものです。私の御目付け役だった秘書課長が、その最たる方でしょう。まさに公務員の鏡、といった感じです。例えば、12時からの昼休憩に備え、私の元には9時にやってきて、昼ごはんのメニューを私に聞いてくるのです。そこで、「ファーストフードが食べたい」と伝えると、メモを書き、そして課長補佐にそのメモが回り、更に二段階おいて買いに行かれるのです。これがまさに、お役所体質ですね。言い訳をさせたら日本一と言われる役人ですが、彼らは「出来ない理由」を列挙していくのです。そこで私は意識変革を図り、明るい職場を作ろうと努めました。どうやったら、彼らをやる気にさせられるのか考えて、「結果」や「スピード」を追求しながら「やりがい」の創出に努めたのです。もっとも、私はと言いますと、公務におけるHow toが分からないので粗相をしてしまいがちでしたが、それにより却って場も和むなどして、明るく面白い職場作りが出来て行きました。

 また、口蹄疫問題等に対応していく中で感じたのは、無駄が多い国と地方との関係性を変えていかねばならない、ということでした。そうした上で、増税は図っていかねばならないと思います。このような経緯もあり、「地方は国の出先機関ではないのだから、現在の体質や構造を根本的に変えていかねばならない」という考えから、最も力を持つ地方自治体である、東京都の知事選に出馬しようと思ったのです。

 まあ、これからどのような活動をしていくかというのも、社会や選挙に問われていくことでしょう。菅さんは「最小幸福社会」と仰いましたが、僕は「最大幸福社会」を作りたいと考えております。
さて、お時間も近づいて参りました。これからの中央大学と皆様の益々のご健勝を心からお祈り申し上げます。本日はご静聴下さり、誠に有難う御座いました。(蓮・進)

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